تسجيل الدخول写真の中の女は、壁から半分だけ顔を出したまま、こちらを見ていた。拡大した画像は粗く、瞳の輪郭も頬の境目も崩れている。それでも、澪には女が笑っていないことだけは分かった。助けを求めているようにも、こちらへ来いと呼んでいるようにも見える。畳の中央に座る返し雛だけが、不自然なほど鮮明だった。白い頬、閉じた目、赤黒い唇を持つ小さな人形の背後で、人間の顔だけが壁紙の染みへ溶け込んでいる。
澪の指先から体温が抜けていくのを感じた。
「常世荘……」
隣で名を口にしたのは、御影蓮司だった。
澪は顔を上げた。つい先ほど名刺を差し出し、椎名澄花の異母兄だと名乗った男は、スマートフォンの画面を見たまま眉間へ浅い皺を寄せている。驚いたというより、嫌なものへ再び行き当たった顔だった。
「知ってるんですか」
「名前だけじゃない」
蓮司は黒いジャケットの内側から、厚みのある書類ケースを取り出した。透明な袋へ分けて入れられた登記事項、古い募集図面、管理会社の記録らしいコピーが重なっている。屋外で広げるには量が多い。彼は警察署の正面を一度見てから、道路向かいにある二十四時間営業の喫茶店を顎で示した。
「ここで立ち話をする内容じゃない。俺は八年間、妹が消える前後に接触した場所と人間を調べてきた。常世荘は、その途中で一度引っかかった物件だ」
朔の視線が蓮司へ向いた。
「どうして澄花と常世荘がつながった」
「それを今から話す」
蓮司の返答は冷たかった。澪へ向けた声より、朔へ向けたときだけわずかに硬い。異母妹と最後の夜を過ごした人間の一人として、最初から信用していないことが伝わってきた。
五人は喫茶店の最奥へ移った。朝の客は少なく、窓際には出勤前らしい会社員が二人いるだけだった。店内には焼いたパンと珈琲の匂いが満ちているのに、澪にはまだ七刻女学校の黴と錆の臭いが鼻の奥へ残っていた。濡れた服を着替える時間もなく、袖口には校舎の埃が白く付着している。奈々香は保温シートを外して借りた上着を羽織っていたが、髪の先はまだ湿っていた。
蓮司はテーブルへ一枚の住宅地図を広げた。
「常世荘は、ここから車で一時間前後。古い住宅街の奥にある。築四十年以上の木造二階建てで、六室だった時期と八室だった時期があり、増改築を繰り返してる」
「現在も人は住んでるの?」
美月が訊いた。
「一階に三世帯。二階はほぼ空きだ。二〇三号室だけは長期間募集を止めてる」
奈々香が乾いた唇を舐めた。
「事故物件だから?」
「違う」
蓮司は次の資料を出した。
「人が消えるからだ」
その一言で、五人の間に沈黙が落ちた。
紙には古い入居者台帳が複写されていた。個人情報の一部は伏せられているが、入居日と契約形態、緊急連絡先、退去欄だけは読める。蓮司は赤い付箋の貼られた七箇所を順に示した。
「過去十五年で、二〇三号室に住んだ女性七人が行方不明になってる」
失踪したのは大学生や会社員、看護助手、シングルマザー、派遣社員、販売員、資格試験のため上京していた女性などで、年齢も職業も出身地もばらばらだった。長く住んだ者もいれば、入居から二週間ほどで姿を消した者もいる。
「全員、女性……」
澪が呟いた。
「そうだ」
「男性は住んでないの?」
「住んでる。短期間だが、過去には三人確認できた。男は誰も失踪してない」
悠斗が資料へ身を乗り出した。
「待て。その記録、どこから取った」
蓮司は彼を見た。
「管理記録と警察への相談記録。登記、旧所有者への聞き取りも合わせた」
「個人でそこまで出るわけないだろ」
「会社名義で建物調査をやってる。正当な依頼を作れば取れる資料は多い。取れないものは、取れる人間に頼んだ」
「その言い方、合法なのかよ」
「今、そこを気にするのか」
悠斗の口が閉じた。
蓮司は一枚の紙を澪の前へ滑らせた。失踪した七人のうち五人が、消える直前に管理会社へ残した相談内容の写しだった。電話対応の要約や巡回担当者のメモ、保存されていたメールには、奇妙なほど似通った訴えが並んでいる。
「内容が似すぎてる」
美月が最初に気づいた。
壁の中から女の声がする。夜中に見覚えのない人形が部屋へ入っている。眠っている間に髪を触られた気がする。押し入れの奥で誰かが息をしている。壁の向こうから、自分の名前を呼ばれた。表現には多少の違いがあっても、どの相談にも同じ種類の異常が残されていた。
澪は紙を持つ手へ力を入れた。
「私が書いてた記事と同じ」
朔が見る。
「常世荘の記事?」
「うん。三代続けて住人が消えたって資料しか取れなかった。七人なんて知らなかった」
「一般公開されてる情報は一部だけだ」
蓮司が言う。
「所有者も管理側も、連続失踪として扱われるのを嫌がった。失踪は死亡確認じゃない。各案件を別々に処理してきた結果、七人が同じ部屋から消えている事実を知る人間そのものが少ない」
澪は、つい昨夜まで書いていた一文を思い出した。
真相は現在も明らかになっていない。
あの文を入力した瞬間、澄花の番号からメールが届いた。偶然だったのか、それとも誰かが澪の記事を読んでいたのか。その疑問を口にする前に、蓮司が別の資料を取り出した。
「さらに変なのは退去記録だ。七人とも、契約上は自分の意思で退去してない」
「家賃は?」
悠斗が訊く。
「支払いが止まり、連絡が取れなくなった時点で保証会社や親族が処理してる。だが本人が鍵を返した記録はない。室内には家財が残っていた。財布、衣服、化粧品、家具まで置いたままだった例もある。計画的に姿を消した形跡は、ほとんどない」
「携帯は?」
「残っていた者が四人、持って消えた者が三人。その三台は、失踪後一度も通信してない」
奈々香が腕を抱いた。
「人が七人も消えてるのに、まだ住民いるの?」
「一階の住民にとっては、二〇三号室で人が何人かいなくなったという程度の認識だ。七件全部を知ってる人間は少ない」
「程度って……」
「人は、自分の生活に直接関係しない異常なら、かなりのところまで慣れる」
蓮司の声には感情がなかった。
澪にはその言葉が妙に重く聞こえた。八年間、七刻女学校を遠ざけながら生活してきた自分たちも、同じだったのかもしれない。澄花が消えたという異常を抱えたまま、それでも学校を卒業し、仕事を持ち、何でもない顔で朝を迎えることを覚えた。
蓮司が別の書類を広げた。
「そして、ここからが妹との接点だ」
記載されていたのは八年前の日付だった。澄花が七刻女学校で失踪した翌日から三日間だけ、常世荘二〇三号室の鍵が管理会社から一時的に貸し出されている。
借用目的の欄は空白で、返却日は三日後になっていた。
借用者氏名だけが、黒く塗り潰されている。
「どうして消されてるの」
澪が訊いた。
「原本の段階で黒塗りだった」
「管理会社が?」
「当時の担当者は覚えていないと言った。貸出台帳そのものも、その三日間だけ記載が不自然に少ない」
悠斗の顔色が変わっていた。
澪は最初、睡眠不足のせいだと思った。
だが違う。
悠斗は資料の会社名を見ていた。
「これ……うちだ」
指が止まる。
「現在の管理会社は、黒瀬さんの勤務先だ」
蓮司が言った。
「待て。俺は常世荘なんて担当してない」
悠斗はすぐに否定した。
「物件名を見た記憶もない。うちは管理戸数が多い。担当部署が違えば知らなくてもおかしくない」
「現在だけじゃない」
蓮司が登記事項を出す。
「所有会社は八年間で三度変わってる。個人所有から法人へ、その法人が別会社へ売却し、さらに現在の所有会社へ移ってる」
三つの法人名に一見した共通点はなかった。しかし管理委託先の欄を時系列で追うと、関連会社を含めながら、悠斗の勤務先がすべての時期へ関与していた。
「全部?」
美月が訊く。
「正確には、関連会社を含めてすべて関わってる」
「俺は知らない」
悠斗の声が低くなる。
「何度言わせるんだ」
「知らないことと、関係がないことは同じじゃない」
蓮司の視線は冷たかった。
「俺を疑ってるのか」
「妹が消えた夜、一緒にいた人間は全員疑ってる」
悠斗の顎が強張る。
朔が間へ入るように口を開いた。
「八年前の鍵の貸出記録と悠斗個人を結びつけるものはない」
「今のところは」
蓮司はそう言い直した。
澪は黒塗りの氏名欄から目を離せなかった。
「澄花が借りた可能性は?」
「ある」
蓮司は否定しなかった。
「ただし、妹本人が管理会社へ行った記録は確認できてない。誰かが妹のために借りた可能性もある」
「もし澄花が七刻女学校から出たあと、ここへ来たなら……」
澪は言葉を探した。
映像の中の澄花は、失踪翌日の朝にも生きていた。制服は泥と血で汚れ、額を負傷していたが、それでも自分の足で理科準備室から出てきた。
「澄花は、あの夜に消えたんじゃない」
「少なくとも、七刻女学校からは出ている可能性が高い」
蓮司が答える。
「自分の意思で移動したのか、誰かに連れていかれたのかは分からない」
「壁には、誰かがもう一度連れ戻したって書いてあった」
美月が言う。
「そのあと逃げた可能性もある」
蓮司の目がわずかに揺れた。
「八年前、俺が常世荘を調べた理由はそれだ。妹の携帯の古い検索履歴に、物件名が残っていた」
澪が顔を上げる。
「検索してた?」
「失踪の一週間ほど前に数回。二〇三号室、失踪、壁の女、人形。そのあたりを調べてる」
「返し雛のため?」
「それは分からない。ただ、妹は七刻女学校へ行く前から常世荘を知っていた」
八年前の七つの場所を、澄花は偶然集めたわけではない。何かを追っていた。澪たちへ話さないまま、一人で。
その考えが胸の奥へ沈んだ瞬間、テーブルの上で五台のスマートフォンが同時に震えた。
誰も触れていないのに、画面が一斉に点灯する。
差出人は椎名澄花。
澪は指先を強張らせながら、新しいメッセージを開いた。
今夜から七日間。
二〇三号室で暮らしてください。 人形を返せる場所を見つけるまで、 誰も退去してはいけません。「暮らす……?」
奈々香の声が大きくなった。
「七日間も?」
店内の数人がこちらを見る。奈々香はすぐに声を落としたが、呼吸は乱れたままだった。
「無理。絶対無理。七刻女学校だけで透が死んだんだよ。今度は人が七人消えた部屋に一週間住めって?」
「従う必要はない」
蓮司が言った。
「少なくとも、送り主が人間なら要求へ従えば相手の計画通りになる」
「七刻女学校でも同じこと言えた」
悠斗が返す。
「無視したら出られなかった」
「だから今度は、相手が準備した場所へ無警戒に入るのか」
「警察に話して囲んでもらえばいい」
「それで澄花のメールを信じてもらえると思う?」
奈々香の声が震える。
「さっきだって透の死体がないせいで、私たちがおかしいみたいに見られてる」
美月はスマートフォンを見つめたままだった。
「『誰も退去してはいけません』って、誰を指してるの」
澪も同じ疑問を持った。生き残った五人全員なのか、それとも、過去に二〇三号室から消えた者たちと同じ条件を課される人間だけなのか。
その瞬間、文章の下へ新しい一行が追加された。
途中で逃げた女から、二〇三号室の住人になります。
誰も声を出さなかった。
奈々香の顔から血の気が引く。美月がゆっくり息を吐き、澪は画面を握る指から感覚が失われていくのを感じた。生き残った五人のうち女性は澪、美月、奈々香の三人であり、文面が指している対象は明らかだった。
「女だけ」
奈々香が掠れた声で言った。
「また女だけ狙ってる」
蓮司は澪の端末を覗き込んだ。
「この文面が、過去の失踪者とつながってる可能性はある」
「どういう意味?」
「二〇三号室から消えた七人も、出ようとしたのかもしれない」
澪の脳裏へ、相談記録の言葉が蘇った。壁の中から女の声がする。人形が部屋へ入ってくる。寝ている間に髪を触られる。それでも七人には正式な退去記録がなく、本人から鍵が返された形跡もない。
もし、あの七人が退去しなかったのではなく、退去できなかったのだとしたら。
「七人の女性が……まだ二〇三号室にいるってこと?」
澪が呟いた。
奈々香が顔を上げる。
「やめて」
澪自身、何を口にしたのか理解した途端に寒気が走った。
蓮司は否定しなかった。ただ、広げた資料の中から一枚の室内写真を取り出した。
常世荘二〇三号室。十年以上前、最初の失踪者が出た直後に管理会社が撮影したものだった。古い畳、押し入れ、染みのある壁は、澪のスマートフォンへ送られてきた部屋とほとんど変わらない。
ただ一箇所。
壁紙の中央に、小さな黒い穴があった。
「これは?」
澪が指す。
「当時から理由の分からない穴がある。塞いでも、次の入居者が入る頃にはまた開いていたという記録がある」
蓮司が写真を裏返した。
裏面に、担当者の手書きメモが残されている。
穴の奥から女の声が聞こえたという入居者から退去希望の連絡を受けたものの、その翌朝には本人が部屋から消えていた。短い記録だった。
澪は息を呑んだ。
そのとき、自分のスマートフォンへ最後の通知が届いた。
文字はない。
音声ファイルだけだった。
五人が無言で画面を見る。
澪は再生ボタンへ触れた。
最初に聞こえたのは、畳を擦る音だった。次いで、女の呼吸が重なる。一人ではない。何人もの女が、ひどく狭い場所へ押し込められたまま、声を立てないよう息を殺している。
その奥から、少女の声がした。
『早く来て』
澄花に似ていた。
けれど、最後に重なった別の女の声は、誰も知らなかった。
『八人目になる前に』
澪の布団に座った返し雛は、それから一度も動かなかった。 朔のカメラには台所の透明ケースへ収められた姿が映り続けているのに、現実では赤い着物の人形が枕を背にして両手を膝へ置いている。 カメラを別角度から向けても結果は変わらず、液晶の中では空のはずのケースに人形があり、布団には何も映らなかった。 奈々香のスマートフォンだけはさらに違い、布団の上へ制服姿の少女を映したまま、返し雛そのものを一度も捉えなかった。「返す場所は、ここじゃない」 澪は、布団の脇に落ちていた紙をもう一度読んだ。 澄花の筆跡に見える一行は、それ以上の手掛かりを与えない。 二〇三号室へ来いと指示され、人形までここへ現れたのに、部屋そのものが目的地ではないのなら、残るのは壁の奥か床下、あるいは図面に存在しない空間だった。 返し雛へ触れることは避け、六人は二〇三号室を改めて調べ直すことにした。 蓮司は建物図面と実測値を照合し、悠斗は管理会社から送られてきた古い改修記録を追い、美月は過去の失踪者が残した相談記録を一件ずつ見直した。 朔は押し入れの空洞と新しい監視設備の接続先を調べながら、澪へ単独で動かないよう何度も念を押した。 昨夜、枕元まで裸足の足跡が来ていたことを考えれば当然の注意なのに、その言葉を素直に安心へ変えられない自分が澪には苦しかった。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 胸元の手帳に隠した澄花の言葉が、カメラと現実で異なる返し雛を見るたび鮮明になる。 朔自身が映像を偽っているのか、それとも澄花が別の意味を伝えようとしていたのか、まだ判断できない。 だから澪は人形から視線を外し、二〇三号室の中で、まだ詳しく調べていない場所を探した。 浴室は玄関脇の細い通路の奥にあった。 古いユニット式ではなく、後から改装されたらしい小さな洗い場と深い浴槽があり、隣に幅の狭い洗面台が設けられている。 蛇口の金属には白い水垢がこびりつき、照明をつけても薄暗い。 洗面台の上にある長方形の鏡は全面が曇り、端の銀引きが黒く腐食していた。「ここも壁が厚い」 蓮司が計測器を当てた。 洗面所と隣室を隔てるだけにしては二十センチ近い誤差があり、押し入れ側と同じく壁内に空間がある可能性が高い。 悠斗は改修図面を開いたが、浴室裏には給排水管用の空間しか記載され
藤崎杏奈の電話は、それから何度かけてもつながらなかった。 呼び出し音すら鳴らず、機械的な案内だけが同じ文句を繰り返す。 蓮司は杏奈の現在住所と、先ほどまで通話が成立していた時刻を警察へ伝え、安否確認を依頼した。 常世荘から数百キロ離れた町だと説明すると、管轄をまたいで確認することになると言われたが、蓮司は引かなかった。「人形の話はしないの?」 奈々香が低い声で訊いた。 顔色はまだ悪く、押し入れの前へ落ちた赤い組紐の切れ端を避けるように壁際へ寄っている。 蓮司は電話が切れる直前、玄関の中へ見覚えのない日本人形が現れたと杏奈本人が話していたことまで伝えたと答えた。 信じるかどうかは警察の判断だが、安否確認に必要な情報は一つも省かないという。 端末を置いた蓮司の手は、机へ触れる直前にわずかに力んでいた。 妹の失踪を八年間追ってきた彼にとって、杏奈は初めて突き止めた生存者であり、しかも事件翌日の澄花を見た証人だった。 その杏奈まで消えれば、また一つ澄花へつながる声が失われる。 澪は彼の焦りを言葉ではなく、何度も通話履歴を確認する指先から感じ取った。 昼を過ぎた常世荘二〇三号室には、朝よりも明るい光が入っていた。 窓の外では洗濯物が揺れ、階下から掃除機の音が響いてくる。 昨夜、押し入れから澪の枕元まで裸足の跡が続いていた部屋とは思えないほど、生活の音が近かった。 それでも奥板を外したままの押し入れだけは光を吸い込む穴のように暗く、剥き出しの配管と断熱材が奥へ沈んでいる。「杏奈さんが見た男も、こういうところにいたんだよね」 美月が壁内部へ懐中電灯を向けると、朔は十二年前なら今より奥まで通れた可能性があると答えた。 午前中に外したスピーカーと小型カメラは透明袋へ封じてあり、空洞に残しているのは自分たちが設置した監視用カメラだけだった。 悠斗が昨日調べた時点では途中をコンクリート壁に塞がれていたと確認すると、蓮司は隣の二〇二号室側からも構造を測るべきだと立ち上がった。 そのとき奈々香の息が止まり、全員が彼女の視線を追った。 狭い台所には古い流し台と小さな冷蔵庫があり、壁際には使われていない木製の低い椅子が一脚置かれている。 その椅子の上に、いつの間にか日本人形が座っていた。 黒い髪、白い顔、古びた赤い着物、小さな両手を膝の上へ揃え
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
押し入れの奥板は、外から見るより新しかった。表面には古い木材に似せた染みと擦り傷がつけられているが、朔が釘へ懐中電灯を寄せると、頭の縁にはほとんど錆がなかった。蓮司は壁厚を測った計測器を床へ置き、板の左右を指で叩いて空洞の広がりを確かめる。さっきまで向こう側から聞こえていた「出して」という女の声も、爪で木を引っかく音も、今は完全に消えていた。「外す。板が倒れるかもしれないから離れて」 朔が工具を差し込み、蓮司が反対側を押さえた。悠斗は押し入れの前へ古い毛布を敷き、美月は奈々香を畳の中央まで下がらせる。一本目の釘が抜けると乾いた金属音が落ち、二本目、三本目と続くたび、壁の向こうから冷たい空気が細く漏れ始めた。最後の固定部を外して二人が板を手前へ引くと、湿った断熱材と古い配管の臭いが六畳間へ流れ込んだ。 壁の中には、人ひとりが横向きになれば辛うじて進めるほどの空洞があった。左右には柱が立ち、灰色に変色した断熱材が垂れ、細い水道管と電線が奥へ伸びている。懐中電灯の光は数メートル先まで届いたが、人影はなく、女が何人も隠れられる幅もない。床代わりの梁には埃が厚く積もっており、たった今誰かが逃げたような擦れや足跡も見えなかった。「いない……」 奈々香が胸元を押さえた。安堵しかけた声だったが、美月は空洞から目を離さず、さっき三つ以上の声を聞いたと静かに確認した。人間がいたなら板を外す間に奥へ移動したことになるが、複数人がこの狭さを通れば、断熱材や埃に何か残るはずだった。蓮司も同じ考えらしく、床と柱の接触部へ光を走らせたあと、眉を寄せた。「俺が入る」 朔は小型カメラを胸元へ固定し、身体を横へ向けて空洞へ滑り込んだ。澪が呼び止めると、数メートルだけ確認し、何か見えても追わないと返す。暗い隙間へ消えていく背中を見送りながら、澪は胸元の手帳を服越しに押さえた。そこには、音楽室で見つけた澄花の字がまだ隠されている。〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文は、見せる機会を逃したまま、彼を信じたい気持ちと疑うべきだという警戒の間に重く挟まっていた。 壁の中で衣擦れが響き、やがて朔が「見つけた」と声を返した。戻ってきた手には、掌ほどの黒いスピーカーがあった。背面には人感センサーと小型電池があり、壁内部を通る細い配線へ接続されている。朔が電源を入れ
夕方の常世荘は、あまりにも普通だった。七刻女学校のように山の闇へ隔離されているわけでも、立入禁止の鎖が巻かれているわけでもない。古い住宅街を横切る細い道路には買い物帰りの自転車が走り、少し離れた公園では小学生らしい子どもたちがボールを追いかけている。夕食の支度をしている家から焼いた魚の匂いが漂い、犬を連れた老人が常世荘の前を何の警戒もなく通り過ぎた。その日常の中央に、築四十年以上の二階建て木造アパートは何食わぬ顔で建っていた。 黄ばんだ外壁には雨垂れの黒い筋が幾つも走り、鉄製の外階段は錆びて赤茶色に変色している。二階へ渡る廊下の手摺には住民が干した小さなタオルが揺れ、建物脇の駐輪場には子ども用の自転車まで置かれていた。昨夜までいた廃校のような、近づくだけで人を拒絶する圧迫感はない。だからこそ澪には怖かった。七人の女性が消えた部屋のすぐ下で、誰かが普通に夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の仕事を考えながら暮らしている。「写真より、ずっと普通だね」 奈々香が小さく言った。借りた衣服へ着替えてはいたものの、左耳にはまだ薄いガーゼが貼られており、疲労の残る顔にはほとんど化粧がない。常世荘を見上げるたび、無意識に髪を耳の後ろへ押し込んでいた。「普通の建物ほど、住み続ける理由ができる」 蓮司が答えた。黒いジャケットの下には調査用の薄いベストを着込み、手には小型の計測器と書類鞄を持っている。「先に言っておくが、俺は呪いに付き合うために来たわけじゃない。妹がここへ来た可能性を調べる。それだけだ」「七日間は泊まらない?」 奈々香が訊くと、蓮司は視線だけを向けた。「要求した相手が人間なら、従う理由はない」「七刻女学校でも、それで済まなかった」 悠斗が低く返した。「だから今回は、何が人間の仕掛けで、何が違うのか最初から切り分ける」 朔が常世荘の屋根と外壁へ視線を走らせる。仕事用の小型カメラは胸元へ固定されていたが、七刻女学校を出てから澪はその赤い録画表示を見るたびに、胸の内側へ小さな棘が刺さるようになっていた。澄花の楽譜に残されていた一文は、まだ手帳の中へ挟んだままである。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 見せるべきかと何度も考えた。だが、透を殺す装置に朔の技術が使われていたこと、八年前のカメラと同じ識別番号で今夜の映像が記録され